なぜ地獄は存在するのか?

自ら選んだ世界でいつか救いが来ると祈っている?
自ら選んだ世界でいつか救いが来ると祈っている?

 洋の東西を問わず、多くの宗教は現世で善く生きた人は天国や極楽に、悪い生活を送った人は地獄にいくと教えている。しかし、宗教によっては、微妙なグラデーションがある。エジプトやチベットの『死者の書』には死ぬ前に、ある種の文言を唱えれば幸福な来世が約束されるという考え方がある。

 また、浄土教の経典には、阿弥陀仏に帰依すれば悪人でも救われるという教えがある。かの親鸞は、善人でさえ救われるのならなおのこと、もっと救われるという逆説、「悪人正機説」を唱えた。

 キリスト教の改革者ルターは、善行ではなく、信仰のみによって救われるという「信仰義認説」を唱えた。ルターは善行を重視する「ヤコブの手紙」を排斥したが、この文書は新約聖書の一部を成すものである。 

 さらには、愛であるのならなぜ神は地獄をつくったのか、という古くからの根強い神の愛への不信がある。

 スウェーデンボルグは地獄の存在を明確に説くだけではなく、そこに入った霊たちはいつまでもそこから脱け出せないという、その「永続性」まで暗示している。なぜ、そんなことが起こるのかをまず考えてみたい。

 人間のもつ四つのタイプの「優勢となった愛」とは何なんだろうか。スウェーデンボルグは『神と愛の知恵』のなかで、これについてくわしく説いている。

神と人間にかかわる基本事項

 スウェーデンボルグは唯一の「神」を認めその神は、有限な人間の無限の原型である「神人God-Man」だという。神人とは無限の人間であり無限の人格のことである。また、スウェーデンボルグによれば、神は愛と知恵」である。

 神が愛であるというとき、その愛とは、私たちが人格性と呼ぶ、自己存在的自己意識的自己表象的自己実現的な活動である。神の愛は、やむにやまれぬ無限の愛から、自分の外にいる他者を愛し、一体になって幸福にしようという願いから、人間を含む宇宙の万物を創造し維持している。宇宙の森羅万象は、伝統的なキリスト教の説くように無から創造」されたのではなく、神の内部に創造されたのである。

 そして、神の自己表象的機能は神の知恵である。あるいは、神の愛はその知恵のなかに、自己実現へと向かう自分自身をみるのである。これをスウェーデンボルグは、「宇宙と人間は神の愛によって神の知恵を通して神の内に創造された」というのである。

 聖書の「創世記」には、人間は神の似姿としてつくられたとある。人間は「無限の人間」としての神の似姿であれば、人間は神の有限な像である。それゆえ、人間もまた愛と知恵という側面をあわせもつ。

 人間は人体から人間なのではなく、有限な愛と知恵という人間性から人間である。神はまた人間の生命であり、生命とは霊的な生命である。そして真の霊的な生命は、正確には神にのみあって人間にはまったくない。人間は生命を受容する受容体、つまり器にすぎない。神の愛の受容体は人間の「意志」である。神の知恵の受容体は「理解力」である。

 スウェーデンボルグによれば、人間はだれであれ、この二つの能力を決して取り去られることはないという。意志とは自分の好むこと、欲することを強制されることなく自由に行うことであり、理解力とは理性的に考え、善悪を見分ける能力である。

スウェーデンボルグは次のように言う。

 神の愛は万人におよび、神は、万人の幸福と喜びを願っており、だれひとり地獄にいくように予定されてはいない。

地獄は悪人を罰する場所ではない

 それではなぜ、地獄のようなものが現実に存在するのだろうか。この疑問にスウェーデンボルグは答えている。

 彼は、神の愛や慈悲は無条件的なもの、すなわち勝手気ままなものではなく、秩序そのものである「神的知恵」ないし「真理」と一体となっていることも強調する。俗世の物質的世界で人間は本来的に自由意志をもち、自由に振舞えるといっても、制約はある。

 人間は、恥ずかしい、悪い評判が立ちはしないか、名誉や地位を失うのではないか、法律が恐いなどのさまざまの理由で、ほんとうは実行したくとも、それを慎むことがしばしばある。

 しかし、肯定して受け入れるのであれば、実行したも同然である。心の底から、つまり良心から悪事を嫌悪し、遠ざけるのでなければ、倫理的とはいえないであろう。重要なのは行為の結果ではなく、そこに至る動機である。

 霊たちの世界に入り「内部の状態」すなわち隠しようもない素の自分の段階に達した意識では、自由意志をはばむ制約はまったくなくなってしまう。そこに現れるのは、生前、日常生活のなかでみずからが自由に形成した内面の性格である。

 自由意志をもつ人間が、日常を送っていたとき意識の最奥部で形作った「優勢となった愛」は、本人の歓喜の生命そのものであり、死後の霊的な身体にもそれは反映している。その愛がエゴに凝り固まっている者たち、つまり、「自己愛」に浸った者たちは、悪や虚偽を自分の善や真理とみなしてこれを喜んでいる。

 自由意志とは、自分が喜ばしいことをする能力だからである。霊界で暮らす場所も、そこは生前犯した罪の罰を受けるところではなく、自分がいちばん居心地のよい、好き勝手に振舞える環境なのだ。そればかりか、彼らが天界を望めば、どんな天使の世界も彼らを拒否しないのである。

 けれども、愛の世界は同じ波動を共有するものどうしの仕組みとなっていて、違う価値観の彼らにとっては耐え難い環境であり、却って塗炭の苦しみを味わう地獄でしかない。

 それゆえ、スウェーデンボルグは、

 「愛や善の行いに裏打ちされない信仰だけによって、あるいはたんなる呪文によって天界に入ることは、みみずくを楽園の鳥に変えるよりも難しい」

 と言うのである。

 スウェーデンボルグは更に言う。

 隣人愛や善を欠く生活、たとえば、自分の利得、地位、名誉だけを求める生活。これは「世俗愛」にもとづくものであり、真の霊的生活とは何ら関係ない。
 逆に、世俗を捨てた敬虔で禁欲的な生活が天界へと通じる道なのであろうか。宗教生活は聖なるものであり、世俗的な生活に対立する。現世を否定し、超俗的な世界に入り、欲に打ち克ち、できれば世を捨てて修道院に入って神に滅私奉公する生活。 

 スウェーデンボルグはそのような生活を送った人びとは死後、寂しい荒野に住むと言う。

 このように考えると、スウェ-デンボルグの説く地獄は、神が罪人や悪人を罰する場所ではないことがわかる。霊となった人間の「自己愛」と「世俗愛」という霊的に転倒した生命こそが、地獄を生み出しているのである。天界が善と真理の国だとすれば、地獄は悪と虚偽の世界である。

 地獄の霊たちは、みずからの意志で好んでここにやってきて、ここに己の歓喜の源泉を有している。人間が機械やロボットではなく、内部に生まれつき刻み込まれた本能的知恵によって生きる動物ではなく、自由意志をもつ存在者である以上、神も原則としてこの自由意志に干渉することができない。

 地獄は刑罰の場ではなく、ましてや「神」は悪人を罰したりはしない。みずから選択した喜ばしい世界であるという考えは、いうまでもなくスウェーデンボルグ独自のものである。