エマヌエル・スウェーデンボルグは史上比類のない霊界の探訪者として有名である。十八世紀のスウェーデンの科学者・哲学者・神学者であり、日本においては鈴木大拙が彼の著作を翻訳して各界の有識者に多大な影響を与えた。
幼いころのエマヌエルは、すでに霊的な感受性を持ち合わせていた。あるとき両親はひとりで遊んでいる息子を見かけた。ところが彼は、「遊び友達と一緒にいたよ」と言う。そのため両親は驚いて、この子は「天使と話している」と語ったという。
エマヌエルのこうした能力は、父イェスペル(ウプサラ大学の神学の教授)のシャーマニックな素質を明らかに受け継いでいた。彼は人生の前半では、科学・哲学を徹底して学び、その基礎的な知見を土台にして後半生からは、神に導かれるかのように前人未踏の霊界探訪へとその軸足を移したのである。
死は必ずしも永遠の別れではない。人が死ぬとはどういうことか。私たちは今、問い直す時期に来ている。
私たちは決して孤独ではない。四国霊場めぐりには同行二人というたとえがある。解釈すれば、常に見えざる存在が寄り添っているのである。
スウェーデンボルグが見た霊界の風景
A ・取り巻く山岳地帯
BD ・大都市の上にそびえる山
CE ・立坑
FG ・大都市
HI ・地下室に通じる立坑
KSMN・曲がりくねった地下室
霊界の風景は常に流動的である。霊界には霊たちの生命の状態があり、霊たちの生命の状態の変化があったときに霊界の風景も一瞬にして変わる。
霊とは、自然に属するものでも、さりとて自然と隔絶されたものでもない。人間の魂の容れものとしての肉体とは異なるが、霊界にも霊体をもった生きた霊が存在する。そして、類友の法則に準じていろいろな階層に住んでいる霊たちがいる。
死んだのち人間は三日ほどして「霊たちの世界」に入る。この場所は天界と地獄の中間領域に属し、上層または内部から来る「善」と、下層または外部から来る「悪」との霊的均衡によって成立する世界である。
『霊界日記』にはスウェーデンボルグが回想した記録がある。「そしてついに、ひとりの霊が私にわずかな言葉で語りかけた。彼が私の思いを読みとったことに仰天した。そのあと私の心が開かれ、霊たちと話ができたときにも、大いに奇異な感を抱いた。そのとき霊たちも同じように私が驚いたことに驚いたのである」と記されている。
スウェーデンボルグは霊的感覚が開かれて以来、何度も繰り返された体験によって、霊魂に対する認識を変更しなければならなくなった。彼にとって「霊魂」はもはや単なる推理の帰結でも幻想的なものでもなくなり、心の奥深い領域で現実に視覚し、かつ交わる対象として、「霊」としてつまり立体的な形として立ち現れる実体となった。
死とはなんであろうか。スウェーデンボルグはこの謎に満ちた、人類の永遠のテーマである問いに冷静に答えている。
ひとことで言えば、死とは「絶滅ではなく、生の連続であり、一つの状態から別の状態への移行にすぎない」
人間はみな、自己同一性(アイデンティティ)の意識と生前の記憶を失うことなく、古くなった衣服を新調するように魂の容れものである肉体を脱ぎ棄て、肉体と類似した霊的身体を持って甦る。
スウェーデンボルグの霊界分析をもう少し細かく見てみよう。彼は霊界での数多くの体験に基づいて、死の実相を次のように描写している。
人間は相互に信じ合える理想的な世界を夢みて、そうした世界をユートピア、地上天国、桃源郷などと畏敬の念を持って呼んでいる。スウェーデンボルグは「人間が創られた目的とは、人類の永遠の生と幸福が実現される天界の創造にほかならない」という。天界こそは人間性のあらゆる理想と創造力が実現される、永遠に続く至福と安寧と美の世界なのである。
天使たちが外部の対象に興味及び視線を注ぐときには、彼らの心は内なるものの中に、つまり神聖な観念の中での表象に留められることになる。眼の前に現れている対象の中に彼らは、感覚の複合体として心に思い浮かんだ映像を見ている。
たとえば、眼が青々とした草木を見ると同時に、驚くことに心は神的な知恵に関連する一群のあらゆるものを一つの融合体として見ているのである。
地獄には閻魔(えんま)大王も鬼も悪魔(サタン)もいない。スウェーデンボルグは、地上に人間として生まれなかったどんな神話的存在も、霊界の存在者として認めない。 霊となった人間の「自己愛」と「世俗愛」という霊的に偏向した生命こそが、地獄を生み出すのである。
「地獄の歯ぎしり」とは虚偽を言い張る者たち同士の絶え間ない口論と争いのことである。そこには他人への軽蔑、反目、嘲笑、愚弄、罵詈雑言が飛び交いそれらがさまざまな種類の中傷へと発展する。なぜなら、誰もが自分の虚偽を守って戦い、虚偽を真理だと言い張るからである。こうした口論と争いが地獄の外側では歯ぎしりのように聞こえるのである。
輪廻転生に関してスウェーデンボルグがどう考えたかを、簡潔に述べる。
スウェーデンボルグによれば、神のみが生命であって、人間はそれ自身ではどんな生命も持っていない。人間は生命を受け容れる限りある器、生命の受容体だというのが、彼の根源的な人間理解である。この受容体は「意志」と「理解力」という二つの受容組織を持つ。
生命自体である神的な愛が神的な知恵を通して人間の霊魂へ流入するとき、人間がそれを意志の中へ受容すれば、それは「善」と呼ばれ、理解力の中へ受容すれば、それは「真理」と呼ばれる。
ある意味で完璧な準備をして霊的な感覚が開かれたスウェーデンボルグは、人跡未踏の領域に入って行く。彼の膨大な著作群では、「天界の秘義」以降の記述からは懐疑や推理や論証は基本的にはなく、神秘家によくみられる比喩や象徴を使った文体もまったくみられない。
霊的世界を議論ではだれも説得できないことを知っていたスウェーデンボルグは、常に論争を避けていた。そのため、彼の神学著作のどこにも議論の跡はない。
「超能力者スウェーデンボルグ」
スウェーデンボルグの心霊的な能力は日常生活においてもしばしば発揮され、多くの逸話を生んだ。霊媒として故人の霊的世界での消息を伝えたり、皆が関心のある未来予知とか、現代では超常現象(PSI)として知られている事柄が彼の一連の能力として報告されている。
彼自身はこうした説明できない事象に好奇な目で関心を示す態度を、人間の健全な精神生活にとって有害かつ危険なものと考え、たとえ人から頼まれても、それが正当な理由を持つとき以外はこの能力を行使することはなかった。
彼の友人ロブサームがある時スウェーデンボルグに、一般の人々も霊界交信ができるかどうかを尋ねた。その際、彼は断固としてこう答えている。